生きることにおいての選択
あなたは生きている内にどれだけの選択をしてきただろうか。
人は生きていれば何かしらの選択を迫られる時が訪れるだろう、その時大切なのは“自分にとって最高の選択ができたか”であると私は思う。
選択肢の制限
何か選択をしようと思った時、その選択は制限されたいくつかの中から選ばれた答えであると知っているだろうか?
法律や規定、身近なところでは親や教師などによってその選択は操作されているのである。
とは言ってもある程度の決まりから抜け出すことは、社会そのものから抜け出すことに繋がってしまう為、ある程度の踏ん切りをつけなくてはならない。
が、今世間を見る限りではその区切りは余りにも狭くなっていると思う。
何をするにおいても誰かの承認がなければ行動に移せない、あらかじめ敷かれたレールの上でしか動けない。そんな若者が多数いる。
果たしてそんな中で自分にとっての最高の選択はできるのだろうか。
理想そして妥協
では、決められた選択から見事抜け出し自分のレールを引いて目標へと進んだとしよう。
目標にたどり着いた時、それはさぞ嬉しいことだろう。ただ、1年、2年…と時が過ぎればどうだろうか、また新たな欲求が芽生えさらに上を望んでしまう。
もちろんそれはいいことである、だが実現可能な目標を超えた望みはいつかやってくる。その時は何かを手放さなければいけないのだ。
人が持てる欲望の量と質はその人の努力次第で増やすことはできるが、それは有限である。
そうして人は自分の妥協できるギリギリを選択していくのだ。
最悪の選択とは
今度はこちらから質問してみたい。“あなたの考える最悪の選択とは“なんだろうか。
私が思う中でおそらく最悪とされるのは自ら死を選ぶことだと思っている。
死を選ぶというのはそれ以上ない負の状況に追い込まれたということであるが、果たしてそれはなぜ起きてしまうのだろうか。
この時期は一年で最も学生の自殺が多いと聞いたが、おそらく新学期の始まりに現実に戻され、恐怖や不安に押しつぶされてしまうからであろう。
実際に自分も中学生時代は新学期学校に行くのは憂鬱だった、ただそれは選択の幅を広げれば未然に防げたのではないかと今になって思う。
そんなに軽いことではないと考える学生や、自殺を考えてしまう学生以上の方達に、道は一つではないと伝えたい。
一般の選択肢を選ぶのは楽でいい。でも、周りと同じことをしていても、自分の存在意義は果たして高いのだろうか。
誰もやったことのないような奇想天外なことはしなくてもいい。ただ、やり方は一つではないことを知ってもらいたい。
自分が納得いく選択を日々してもらいたいと思う。
では、また。
あなたの人生は川の石
人の一生とは川の石のようなものである。
いきなり何を言ってるのかと思うかもしれないが、これから話す内容を自分はひとつの石だと思って聞いてほしい。
人は産まれた時それは大きな石であった、未来へ希望を持ちいくつもの可能性をひめた石だ。
その石は川の流れ(時代の流れ)に沿って下流へと流れていく。
そのうちに周りの石と共に削り削られ要らない角はすり減っていく。これは己の人生において不必要とされる部分である。
川の上流を抜けた頃、だんだんと川からはみ出す石が出てくる。川の流れから抜け出してしまった石は削られることなくその場にとどまった。
川(社会)から出てしまう石。これはすなわち、人生において大切な小中学生時代を何かしらの理由で存分に過ごせなかった者達である。
ただこの石たちも何かしらのきっかけがあればまた流れに戻ることができるのである。そのきっかけを作るのは他ならぬ周りの石たちの力だ。
さて、中流にたどり着いた石たちはこの後長く緩やかな流れに沿って進んでいく。
中流は周りの石の数も多く、角ばった石が減るため時間をかけてゆっくりとその形を形成していく。
進んでいく中で時には流れが弱まりその場から動かなくなる石が出てくる。これは社会全体の活力が弱まっている状態である。
ただ雨や土砂(好景気や経済成長)によりその流れを吹き返すこともある。
時にはその逆で安定した場所を見つけた石も豪雨や土石流(リーマンショックなど)で流れることを余儀なくされることもある。
また周りよりも角ばった石は削られることを嫌い変わろうとしなかった、時代に残された古い考えの人のようなものである。
このような石は何らかのきっかけで大きく欠けてしまうことがある。
こうして長い中流(20〜40代)を抜けたらあとは下流で削られながら1番良いサイズから少しずつ小さくなっていく。
下流を抜けるまでに人の手や生き物(病気)によってその流れを閉ざされる石もいくつか出てくる。
それも乗り切り最後の小さな砂粒のようになるまで転がった石は海へと出ることができるのである。
このように中流半ばまでに削られる部分は人生においての失敗や悪い事であり、その後丸く綺麗な形からどんどんと小さくなっていくにつれその命を削られていることを表している。
貴方は今、川のどこにいるかは分からないが、中流以上ならばより目標とする形を目指し、他の石と共に削り削られていって貰いたい。
リーダーの素質
リーダーとはどんな人間だと思うだろうか、なんでも出来て優秀、そしていつでもトップである人間。
そこまででもなくとも周りよりは優秀であるというイメージはあると思う。
ただそのリーダーの中にも良きリーダーと悪しきリーダーがあると思うが、その違いはなんだろう
結果的に悪しきリーダーとなってしまった人の中には独裁的な政治をしたり、不正をしたりと自分のいいようにその立場を利用してしまった人が多い。
逆にいいリーダーとはどのような人なのか、それはまずもちろんの事ながら人をうまく使える人である
人をうまく使うと言っても様々だが、例えばメンバーの士気を高めたり自分の欠点を補うようなメンバー選択を出来る、またメンバーの組み合わせが上手いことなどがある。
また、人をうまく使える人は自分の欠点を知っていることが多い、自分にできないことはほかの人に埋めてもらえばいい、それをせずに自分は完璧であろうとするリーダーは基本的にボロが出て失敗する。
そう、リーダーは完璧では無い
次にリーダーは決して下の人を見下さない、自分の下に着く人の意見は取り入れて改善しなければ信頼されず、本当に自分を慕ってついてきてくれる人がいなくなってしまうから。
また人の意見を聞かないような人には成長が見込めず、信頼されないだけでなくほかのグループなどから色々な依頼が来ず、チャンスを逃してしまうのだ。
ここまでで話してきた内容はほかの時に書いたブログの、人の意見と、知識についての内容、自分の立場についての内容で書いたことに繋がっているので気になれば見て貰いたい。それらの内容を踏まえればリーダーとなるチャンスはいくらでも回ってくる。
今まではリーダーを遠い存在だ思ってた人、自分にそんな役はできないと思っていた人、もし今の人生で誰かの言われた通りに何かをするだけ、自分の思い描いていた現実とは違い何か足りなさを感じている人
そんな人にはぜひリーダーとしての素質を磨き自分の思う状況を作り出してもらいたい。
素質のある人ならばしっかりとしたイメージがあり、人を引きつける強い意志があると思う、自分が偉いと威張り無理にイメージ通りにするのは良くないが、既存のルールの中で行動を起こさずその他多数の中の1人として不満を抱えるくらいなら
リーダーを目指してみてはいかがだろうか。
尊敬されているのは貴方か、役柄か。
あなたは身近な人を敬っていますか? 両親や先生や先輩、お年寄りなど敬意を払う人は多くいるだろう。
では、どうしてそういった人達に敬意を払うのかは分かるだろうか、それはその人達が自分より優れていて学ぶべきことが沢山ある人だからだ。
でも今の日本ではどうだろうか、考えの浅い政府に年金を貪り威張り散らす老人、生徒間のいじめや問題行動を見て見ぬふりする教師達
果たしてその人たちを敬ってどうなるのやら、私はそんな人達には従う価値はないと思う。もちろん社会で生きていくためにはそんな大人達にも従わなければ行けないのだが、、、
子供に何がわかると言われるかもしれないが、そんな大人達に知ってもらいたいことがある。それは
あなた自身が偉いのではなく、その役職が優れたものだということ。
教師にしても親にしてもその人自体がたとえレベルの低い者だとしてもその立場であるだけで私たち子供より上の立場となっている
例えば、日本は自分より年齢が高い人に敬意を払う風習があるが、その風習が年金制度や年功序列を生み出し、年上だのどうこうと言って上の立場になろうとする者がいる。
もちろん今まで日本を支えてくれたことには感謝しているし、親や先生にもその職に見合った能力がある人には敬意を払っている。
ただこれからの日本を支えていくのは我々若者なのだ。
最近の若者は礼儀がないとか、問題が多いだとか言われているが大人も同じようなものだと思う。
しっかりしている者もいれば堕落している者もいる、ただその小さな区切りではなく大人と子供のように大きなくくりになってしまっているのが問題なのだ。
どこにも尊敬すべき人はいて、こうはなりたくないと思われている人もいる。
人には何かしら役は与えられていいて私たちはその役にあった人になればいいだけだ。自分の身の丈に合わない役は回ってこない、
自分がどうあるべきか考え、まともな教育を受け、 社会を知っていれば誰もが敬われる存在になれる。
自分はお前より年上だとか、俺はお前よりいい役職だとかそんなことはどうでもいい、自分が相手より優れているかなんて相手側が決めることだ。
若者にも大人にも言えるが、ぜひその職にあった人材になり役職が自分より優れている人にはならないようにして頂きたい。
人の意見と自分の行動
あなたはどれだけ人の意見を取り入れているだろうか、そしてどれだけ人の考えを吸収しようと努力しているだろうか。
何かを指摘されてもすぐに結果がでなければ諦め取り入れることはしない。更にはやはり違ったではないかと言う。
それはとても悲しいことだ、そもそもあなたは何を知っているのだと言いたい。
指摘されるということはほかの人から見ても違うということで、それがたとえその人の基準で測っていても最低でもその人の前では改善しておくべきなのだ。
言われた通りにするのは良くないが、指摘されたら何かしらアクションを起こすべきだと思う。
自分が正しいと思い込まず、相手の意見にもっと耳を傾けるといい、その意見はその人が自分とは別の人生を送ってきた結果見い出した方法なのだから。
よく考えてみてほしい、もし20歳の人3人からの意見を取り入れたら60年分の思想が数分で自分のものにできるということだ。
三人寄れば文殊の知恵というように、ほかの人の言うことは聞くべきだ。
世の中には成功している人は沢山いる、何が成功なのだと聞かれればそれは人それぞれ違っては来るのだが…
ただ成功しているかしていないか、その差を産むのはやはりその人の考えの豊かさにあるとおもう。
成功への近道など無いと言われているが確かにそうだ、ただわざわざ遠回りすることはないだろう。
何が言いたいのか、それは人の意見を上手く使いその考えに辿り着くまでの時間を短縮したらどうかということなのだ。
だいたい成功の方法とは決まっているものだ、その結果により近づくために、時間を短縮するために意見というのは大切なのだ。
他人の考えを蔑ろにするのではなく、何か意見を出されたのなら自分の考えでは至らなかった新しい切り口で物事を捉えることが出来たと喜んでもらいたい。
自分1人では知らないことがあまりにも多すぎる、だからこそ多くの人から様々な情報を得て、自分のものにすることが大切なのだ。
学問と就職
多くの学生、主に高校生は自分の将来に付いてどのように考えているのか、また就職したばかりの人はどんな持ちで働いているのか。
今回は社会に出てお金を稼ぐことについて少し考えていきたい。
まず、学生時代に何を優先して生活していくのかについて話そうと思う。 いきなりだが質問をする、あなたは今もしくは学生時代何を最優先に生活していました(います)か…?
部活動、勉強、恋愛、校外活動などその答えは多岐にわたるとおもうが、その回答が会社に入ってどれほど役に立つのか。
もちろん学生生活は一生に1度だし、働き始めてからはなかなか自分の時間というのもなく、色々なことから疲労なども溜まっていくだろう。だからこそ学生を大いに楽しむこともいいと思う。
ただ、その中で少しづつ将来に必要なスキルを身につけて行ってもらいたいと思う。
例えば学校で成績を取ることだけを優先し、テスト範囲外の勉強を拒んだらどうだろうか、所有する情報量は一般のひとと同じである。
就職時は成績があった方が有利だろう、ただその会社を辞めたらどうだろう。
現状で三年以内の離職率は3~5割、再就職時には成績などは関係なく個々のスキルを売り出して職につくことになる。
だからスキルを身につけるべきだろうと思う。
だがしかし、そのスキルは希少かつ有効なものでないといけない。
例えばコンビニの店員などは基本的に誰でも出来るだろう。高度なスキルも必要とはされない。
このような代替が効く仕事ほど給料も低い。なので、今後どのような人材が必要になるのか考え、またいろいろな状況に対応できるよう色々な知識を持っていなければいけない。
今は必要のない能力も数年後には重要視されてることもある、
必要なのは時代のニーズに答えたスキルをどれだけ早く活用できるか、またどれだけそれを見極められるかだ。
勉強も大切だが、自分の能力値を上げることにも努力してほしいと思う。
幸せの基準
幸せ〜と〜は♪…最近backnumberの「瞬き」を聞くことがあった。
本歌では毎日の繰り返しではなく大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだと歌っている。 全くその通りだ。
前のブログでも書いたように幸せは繰り返される日々の中でちょっとしたいつもとの違いに見いだせると書いた。
現実ではどうだうだろうか、繰り返される日々の中で今まで感じていた楽しさは感じなくなり、より良いものを貪欲に追い求め…幸せは感じなくなっていく。
結論から言えば全ての人は幸せの中にある。少し信仰的な考えになってしまうかもしれないが、幸せは神が与えるものではなく、自分の考え次第でどうにでもなるものだ。
例えば、貧困地域の少年は私たちに比べたら不幸かもしれない。ただその少年が家族といられることに幸せを感じていたのならどうだろうか、
現状に幸せを感じられていない私たちよりは結果的に幸せなのだ。
人が財政的に裕福なのかは身につけるものや食べるものなどで判別出来るだろう。ただ心の裕福、すなわち幸せはどこにいてもどんな状況だろうと感じられるだろう。
私が伝えたいのは1つ、今の現状より上を見るから幸せを感じなくなってしまうということだ、何も下を見て満足しさらに成長しようとするなと言っている訳では無い、
上と比べて自分にもあるものを見失うなと言いたいのだ。さらに良くなろうというのは当たり前の考えだ。
ただ、その目標を持ちながらも成長の中で、初心の頃の物事に対する感謝や喜びを時折思い出し、その成長度合いに驚き、また成長できたことに喜んで欲しい。
幸せは常にそこにある、ただそれを見つけられていないだけ、目標に覆い隠され見えなくなっているだけなのだ。